朝の起床前、寝床の中で自分が死ぬ時のことを思うことがある。がんになって死ぬときは苦しいだろうなという考えが浮かんでくる。
精神的に不安定になると死ぬ時のことが心の中を占めるようになる。普通の人は自分が死ぬ時のことを考えることは滅多にないと思う。自分がいつ死ぬことになるかなど分かりようがないし、考えても仕方がないことであることは間違いないだろう。だが時々そんなことをリアルに考えてしまう自分がいる。
生涯でがんに罹患する男性の割合は62%にもなる。そういう自分も5年前に胃がんに罹った。幸い早期に分かったので胃の内視鏡手術で完治した。だが一度がんに罹患するとたとえ完治したとしても再び何らかのがんに罹患するリスクが高くなると思う。男性の10人のうち3人はがんで亡くなっている。
遺族への聞き取り調査によると、がんで亡くなる前の1カ月間、痛みや吐き気、呼吸の苦しさなどの苦痛があった割合は4割だったという。亡くなる1週間前にひどい痛みがあった人は27%だった。がんで恐ろしいのはしばしば強い痛みに苦しむことである。近年では緩和ケアが重視されるようになってきてはいるようだが、それでも取りきれない激痛に見舞われる患者が少なくない。自分がそういう目に遭ったら早く死んでしまいたいと思うだろう。
たとえ、鎮痛ができた場合でも、痛みとは異なる身体的な苦しさを患者が訴えることが多いという。例えば、全身倦怠感があるとか下肢がだるくて置き場所がなく痛くはないけれど耐えられない苦痛がある、腹水でおなかが張って(腹部膨満感)苦しい、吐き気が続きよく嘔吐して苦しいだけでなく力が抜けて生きているのすら辛い、息苦しい(呼吸困難)などの身体的な苦痛もある。その上、末期がんで痩せて骨ばってきたところにできた褥創(とこずれ)の痛みには耐えられない場合が多いという。
医療では取りきれない褥創の痛みや、痛みではない身体的苦痛から解放されるのは、鎮痛剤や睡眠薬で眠っている間だけと言わざるを得ない状態になることがある。その場合、最後の手段としてセデーション(鎮痛)によって患者の苦痛を取り除くことができるという。セデーションは患者の強い希望を前提として鎮痛剤によって患者の意識をなくすことである。だが医療機関によってはセデーションを医療行為としては採用していないところも多いらしい。願わくば自分がかかる病院ではセデーションを実施しているようにと思う。
たとえ緩和ケアによって痛みが除去できていたとしても解決できないものが死の恐怖である。死んだらどうなるのか。死後の世界はあるのか。死んだら地獄に落ちるのだろうか。死んで生きて帰った人はいないので死後のことは実際には誰にもわからない。普段、死を意識していない人でも死が間近に迫ると否応無く死の恐怖に直面せざるを得なくなる。
そういった精神的苦痛、霊的苦痛の問題に回答を与えているのが宗教である。私は元々無宗教で宗教には関心がなかったが、死の恐怖を真剣に考えるようになって宗教に関心を持つようになった。
宗教の中でもとりわけ死後の問題を扱っているのは仏教、中でも浄土宗、浄土真宗である。今では葬式仏教などど揶揄されている仏教であるが、浄土宗、浄土真宗は死んだらどうなるか、死んだ後のことを教えている。
宗教は信仰であって、科学ではない。科学的思考と信仰とは相容れないものではないと考える。私は自分の死の問題に向き合うことによって、それを解決するために宗教を必要とした。